選ばれなかったことを、価値の証明にしていた

時間が経っても、ふいに戻ってくる悲しみがある。
もう終わったことだと、頭ではわかっている。今さら何かが変わるわけではないことも。それでも、ある瞬間に思い出されて、胸の奥にまだ言葉になりきっていない痛みが残っていることに気づく。
悲しい。悔しい。どうして、という気持ちもある。
真面目に向き合ってきたつもりだった。誠実であろうとしてきたつもりだった。それでも、関係が終わることがある。
その事実は、思っている以上に人の心を揺さぶる。終わったことそのものよりも、「自分が否定されたように感じること」のほうが、深く残ることがあるからだ。
自分は足りなかったのだろうか。自分の真面目さには、意味がなかったのだろうか。もっとちゃんとしていれば、違う結果になったのだろうか。
そんな問いが、静かに繰り返される。
けれど、あるとき思った。誰かが自分から離れていったことは、自分が無価値である証明ではない。
それは、ひとつの関係が、ある時点で続かなかったという事実であって、自分の存在を決める判決ではない。
もちろん、相手にも相手の言い分がある。自分から見えていた景色と、相手から見えていた景色は、違っていたのだと思う。どちらか一方だけが正しいというほど、人と人との関係は単純ではない。
それでも、自分が傷ついたことまで、なかったことにしなくていい。
相手にも事情があった。でも、自分も傷ついた。その両方を、同じ場所に置いておいていい。
昔の自分は、どこかで信じていたのかもしれない。真面目に生きていれば報われる。誠実に向き合えば、相手にも伝わる。我慢すれば、関係は保てる。
でも、現実はもう少し複雑だった。真面目に生きても、別れは起こる。誠実でも、伝わらないことがある。我慢しても、関係が守られるとは限らない。
相手がどう受け取るか。何を選ぶか。自分をどう見るか。それは、相手の領域にある。
一方で、自分の領域にあるものもある。自分は、自分なりに誠実だったか。相手を雑に扱わなかったか。あのときの自分を、今の自分はひとりの人として扱えているだろうか。
ここに線を引くことは、冷たくなることではない。自分と相手を、混ぜすぎないということだ。
私は私。あなたはあなた。
その距離は、孤独のためにあるのではなく、お互いをひとりの人として尊重するためにある。
真面目に生きる。でも、報われるためではなく、自分を裏切らないために。誠実でいる。でも、相手に必ず伝わることを条件にしない。悲しみを抱く。でも、その悲しみに、自分の価値を決めさせない。
たぶん、前に進むとは、もう悲しまなくなることではない。悲しみが戻ってきたときに、「やっぱり自分はだめだった」と結論づけるのではなく、「私は傷ついた。でも、その痛みだけで、私の価値まで決まるわけではない」と、自分の側に戻ってこられること。
傷ついた自分を、さらに責めないこと。あのときの自分にも、今の自分にも、静かに居場所を与えること。
関係が終わったことは、確かに悲しかった。私は傷ついた。でも、壊れたわけではない。
過去は消えないまま、少しだけ置き場所を変える。心の真ん中にあった痛みが、人生のすべてを決めるものではなく、ここまで生きてきた証のひとつになっていく。
誰かの判断ではなく、自分が自分をどう扱うのか。
いま、その問いの前に、自分はどんなふうに立っているだろう。

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