ふと、昔の言葉がよみがえることがある。
別れぎわに、「ずっとサインを送っていた」と言われた。その一言が、長いあいだ残った。人の心が知りたくて、心理学の本を読み、表情の分析まで学んだ。それでも、人の心はわからないままだった。それどころか、自分の心さえ、「どうしたいのか」という問いに、いまも答えが出てこない。
ようやく腑に落ちたことがある。あの「サインを送っていた」という言葉は、たぶん、読みそこねた客観的な真実ではなかった。サインは、送るほうと受け取るほうが、同じ意味で受け取って、はじめてサインになる。相手が何かを伝えていたつもりのことが、こちらにはいつもの日常にしか見えていなかった。読む力が足りなかったというより、同じ仕草を、同じ意味で見ていなかった、ということなのだと思う。
それに、人の心はいつも状況によって揺れ動いている。だとすれば、表情の本を読んでまで掴もうとした「読めばわかる固定された真実」は、そもそもそういう形では存在しなかった。わからないままでいい。そう思えたとき、肩の力が、すっと抜けた。
心が読めないのだとしたら、人との関係は、何によって成り立っているのだろう。
そもそも、関係はなぜ変わってしまうのだろう。価値観の違い、という言葉だけでは片づかない。むしろ、自分にないものを持っている人に惹かれることのほうが多い。だとすれば、変わるのは価値観そのものではなく、その違いの「意味」のほうなのかもしれない。出会った頃、違いは世界を広げてくれるまぶしいものだった。同じ違いが、年月を経ると今度は分かり合えなさとして感じられてくる。豊かさだったものが、いつのまにか距離になる。
では、関係はどうやって育っていくのだろう。たいていは、何かに惹かれるところから始まる。けれどその惹かれは、相手の全体にではなく、断片に向いていることが多い。ある仕草、話し方、まとっている空気。惹かれることは、扉を開けるだけだ。その先で関係を育てるのは、少しずつ自分を差し出して、それが取りこぼされずに受け取られる、という往復のほうだと思う。これくらいは見せても大丈夫だった、という小さな安心が積もっていく。関係とは、受け取ってもらえたという歴史そのものなのかもしれない。
少し切ないのは、人を惹きつけるのは、たいていその人のいちばん良く見えるところだ、ということ。けれど関係が本当に深まるのは、思い描いていた姿とは違う相手が見えてきて、それでもそばにいたいと思えたときなのだと思う。最初に描いていた像が、実際のその人に少しずつ書き換えられていく。それでもなお、そばにいることを選ぶ。動き続ける相手と、何度も出会い直す。
また、どこかで、穏やかな関係を築ける人と出会えたらと願う。ただ、こうして穏やかな関係とはどういうものかを言葉にできるのなら、もうその半分は、自分のなかにあるのかもしれない。受け取られる安心も、相手の自由を怖がらない落ち着きも、自分から差し出していけるものなのかもしれない。だからこれは、ただ待つことではなく、それを受け取れる誰かと出会うのを、静かに待つということなのだと思う。


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