「手放す」という言葉が、あちこちで聞かれるようになった。不要なものを捨て、シンプルに生きる。その考え方には共感する部分がある。
でも、正直に言えば、すっきり手放せないものがある。理屈ではわかっている。それでも手放せない。その違和感を、ずっとどこかに抱えてきた。
ソニーの創業者・盛田昭夫は、ウォークマンを世に出すとき、録音機能を取り除くという決断をした。エンジニアたちは反対した。機能を削ることへの抵抗は自然だ。しかし盛田は、「聴くこと」だけに絞った製品を作った。
これは「本質がわかったから削れた」のではないと思う。むしろ、「飛行機の中でオペラを聴きたい」という具体的な感覚に従ったとき、録音機能が「この製品には合わない」と感じられた。確信よりも先に、感覚があった。
持ち物なら手放せる。でも人生には、合わないとわかっていても、細い糸でつながっていたいものがある。過去の関係、かつて属していた場所、もう戻れない時間。
それを手放せないのは、弱さではないと思う。その細い糸には、その時間を生きた自分の記憶が宿っている。完全に切ることは、ある意味で、過去の自分を否定することでもある。
手放せるものと、手放せないものの間で揺れること。その揺れ動きそのものが、自分という存在の輪郭を少しずつ形作っている気がする。
切るでもなく、抱え込むでもない。距離を置く。
それは曖昧さへの逃げではなく、ひとつの選択だと思う。近くに置くことはできないけれど、つながりは残しておく。その中間の場所に立つことを、自分に許す。
盛田がウォークマンから録音機能を遠ざけたように、人生においても「今の自分にはこの距離が合っている」という判断がある。それは本質を確定させることではなく、今この瞬間の感覚に正直でいることだ。
あなたが距離を置きながら、まだ細い糸でつないでいるものは何ですか?


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