「感じてほしい」が、強すぎるとき

長いあいだ、自分は少し冷めた人間なのだと思っていた。

映画の山場で、ここで泣くのだろうと察したとたん、涙が引いていく。
「感動の実話」と大きく書かれていると、観る前から少し身構えてしまう。
心を動かそうとしてくれているのは、わかる。
それなのに、動こうとしていた何かが、すっと奥に引っ込んでしまう。

最初は、誰かに何かを期待されること自体が苦手なのだと思っていた。
動かしたい、変えたい、という気配を向けられると、
自分が何かの材料にされたような心地がする。
だから、意図を持って近づいてくるものに距離を感じるのだと、そう思っていた。

けれど、どうやらそれは違っていた。

意図のないものなど、ほとんどない。
静かな音楽にも、淡い絵にも、短い文章にも、
作った人の「こうあってほしい」は、必ず混じっている。
そういうものにこそ惹かれてきたのだから、
意図そのものが苦手なわけではないらしい。

では、何が違うのだろう。

苦手だったのは、意図ではなく、意図が前に出すぎていることだった。

ここで感動してください。
これを聞けば眠れます。
こうすれば変われます。

そう言われた瞬間、
自分の中でこれから起きるはずだったことが、先に決められてしまう。

感じる前に、感じ方を手渡される。
眠る前に、眠れると決められている。
たどり着く前に、行き先を指さされる。

そうして、
自分の反応がゆっくり立ち上がってくるはずだった場所が、
あらかじめ埋められている。
余白がない。
だから、入っていけない。

ただ、これを外側の誰かの話だと思っているうちは、たぶん半分しか見えていない。

同じことを、自分は自分に向けてやっているからだ。
何かを感じる前に、こう感じるべきだと、先に決めてしまう。
動揺しないように。気にしすぎないように。
そうやって、自分の中にあった余白まで、自分で埋めてしまう。

惹かれてきた静かなものにも、意図はあった。
ただ、急いでいなかった。
こう感じてほしいと思いながら、
そう感じないこちらを、許していた。
動かないままでいることを、責めなかった。
だからこちらは、安心して、
動くか動かないかを、自分で選ぶことができた。

何を感じるかを、まだ決めずにいられることは、
小さなことのようでいて、たぶんそうではない。
それは、自分がどこへ動くのかを、自分で見つけていける余地そのものだから。

いまも、線はうまく引けない。
誰かに本当に何かを願うことと、
その人の反応まで決めてしまうことの境目は、
思っているより、ずっと近い。

ただ、ひとつだけ、手元に残しておきたい問いがある。

何かが自分を動かそうとするとき、
そこには、動かないままでいる余地が、まだ残っているだろうか。

そして自分は、誰かに対して、
その余地を、ちゃんと空けておけているだろうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました