子どもの頃の遊びに、自分の軸があった

子供の頃、ノートに架空の野球チームを作って遊んでいた。
打順、選手の名前、背番号、年俸。それらをノートに書き連ねていく。1番打者は俊足巧打の選手、4番は長距離砲、エースナンバーは10番か18番、年俸はその選手の実力に応じて配分する。誰に見せるためでもない。ただ、自分の中で「こうあるべきだ」と感じる配置を、紙の上に立ち上げていく。それが、たまらなく心地よかった。
大人になっても、似たような楽しみは続いていた。武将を配置する歴史シミュレーション。選手を集めてチームを作るゲーム。形は変わっても、求めていたのは同じものだった。バラバラの要素が噛み合って、ひとつの世界として整然と立ち上がる、あの瞬間。
ある時、ふと思った。自分は、お金で何かを運営するのが好きなのだろうか、と。野球チームの年俸も、武将の石高も、どこかにお金が絡んでいる。だから、お金そのものが好きなのかもしれない。そう、最初は考えた。
けれど、対話を通して掘り下げていくうちに、それは半分だけ当たっていて、半分は違うのだということが見えてきた。
年俸も、石高も、自分にとっては「お金そのもの」というより、「価値を可視化する単位」として機能していたのだ。選手一人ひとりの価値、武将の働き。本来は曖昧で、複雑で、言葉では捉えきれないものたちが、ある単位に翻訳された瞬間、輪郭を持って立ち上がる。お金が好きというより、その「輪郭が立ち上がる瞬間」が好きだったのだと思う。
ここで、もうひとつ気づくことがある。これらすべてに共通しているのは、「俯瞰する立場」だということだ。プレイヤーとしてバットを振るのではなく、監督や経営者として全体を見渡す。配置全体が見える場所に立つ。何かを成し遂げるというより、何かを整えて、眺める。それが好きなのだ。
では、なぜ自分は「整えて眺める」ことが好きなのだろう。さらに問いを進めてみる。
おそらく、自分の中には「あるべき姿に揃えたい」という感覚がある。これは外から教わったルールではなく、自分の内側から自然に立ち上がってくる秩序の感覚だ。1番打者は俊足巧打であるべき。4番は長距離砲であるべき。誰かに評価されるためではなく、ただそれが「しっくりくる」「美しい」と感じるから、そう配置する。
この感覚を、世間ではしばしば完璧主義や強迫的と呼ぶ。でも、自分の中にあるそれは、少し質が違うように思う。揃っていないと不安だから揃えるのではなく、揃った状態を見ることそのものに、深い心地よさを感じる。動機は恐れではなく、美意識に近い何かだ。
そしてさらに掘ってみると、もうひとつの層が現れてくる。自分はなぜ、あるべき姿に揃えたいのだろう。
ぱっと思い浮かんだのは、こういうことだった。ベーシックな状態を保つことで、外側の変化に対応しやすくなる。ドラゴンクエストで言えば、戦士や魔法使いのように何かに特化したキャラクターより、勇者や村人のように汎用性のあるキャラクターのほうが、変化に対応できる。特化はハマればとことん強いが、ハマらなければとても不利になる。だから、ベースを整えておきたい。整えておけば、何が来ても、最悪は避けられる。
これは、最大化ではなく、最悪回避の思考だ。最大の利得を狙う賭けではなく、最悪の事態だけは避けるための備え。一見、消極的に聞こえるかもしれない。でも、考えてみれば、進化が選んできたのも、長期的に生き残ってきたのも、この戦略のほうだ。「最大の利得を狙って絶滅する戦略」は、文字通り遺伝子を残せない。「平凡だけど、どんな環境変化にも対応できて生き延びる戦略」のほうが、長い時間軸では勝つ。
そう考えると、自分の「先のことを考えてしまう」性質も、見え方が変わってくる。これは欠点でも臆病さでもなく、自分の自然な働きなのだ。能動的に「考えよう」とするのではなく、放っておいても自然に「考えてしまう」。それは、自分という人間にもとから備わっている、ひとつの働き方なのだと思う。
知識は失われることがあるし、知恵は使わなければ錆びる。けれど、その人の中に組み込まれた自然な働きは、消えない。なぜなら、それはその人の存在のあり方そのものだからだ。
ここまで来て、ようやくひとつの自己像が立ち上がってくる。
自分は、派手な一発を狙う人ではなく、長く穏やかに続く状態を、丁寧に整え続ける人なのだ。突出した成功を追いかける人ではなく、ベースを保ち続けることで、変化の中を生き延びていく人。最大化ではなく、持続。獲得ではなく、整え。これが、自分の本質なのだと思う。
そして、ここで気づく。自分のブログの名前は「穏やかな選択」だ。穏やかとは、最大化ではなく持続のことだ。選択とは、可視化を経た納得のことだ。子供の頃にノートに野球チームを書いていた自分と、今ここでブログを書いている自分は、実は同じことをしている。整えて、可視化して、納得する。形を変えて続いてきた、ひとつの営み。
ブログのタイトルは、たまたま付けたものではなかったのだ。自分の本質が、自然にその言葉を選ばせていた。後から振り返って、ようやくその必然性が見えてくる。
子供の頃、ノートに野球チームを作っていた時間。あの心地よさの正体が、今、少しだけ言葉になった。それは、自分が「整え続ける人」であることを、当時から身体で知っていたということなのだろう。
整え続けることが、自分の在り方なのだ。終わりのある営みではなく、生き続ける限り続いていく姿勢として。

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