本当の価値は、外側にはなかった

ロリー・サザーランドの本を読んでいて、ある問いが生まれた。
チョコレートの形を変えただけで、味が甘く感じられた。製法は何も変わっていないのに。それを知ったとき、私は少し立ち止まった。私たちは本当に、ものをそのまま感じているのだろうか、と。
心理物理学という言葉がある。神経生物学的な知覚が、客観的な現実とどう異なるかを研究する学問だ。難しく聞こえるが、要するにこういうことだ。私たちが見ているもの、聞こえるもの、味わうもの——それらはすべて、脳が編集した世界だということ。現実を直接感じているのではなく、脳というフィルターを通した現実を感じている。
では、なぜ脳はそのような編集をするのか。
それは効率のためだ。脳は体重の2%しかないのに、エネルギーの20%を消費する。だから脳は変化と差異だけを拾い、あとは補完する。全部を処理しようとすると、コストが膨大になるからだ。砂漠で動くものに瞬時に反応できたから、私たちの祖先は生き延びた。この省エネの設計が、現代では「現実とのズレ」として現れている。
そのズレの中に、価値の謎がある。
同じ水が、コンビニでは100円の価値を持ち、砂漠では命と同じ価値を持つ。水そのものは変わっていない。価値を決めているのは、水を取り巻く状況だ。同じ言葉でも、教授が言うと重く聞こえ、無名の人が言うと素通りされる。言葉そのものは変わっていない。「誰が言うか」という文脈が価値を決めている。
つまり、価値はものの中にあるのではない。ものと、受け取る側との関係の中に生まれる。
ここまで考えたとき、私はさらに問いたくなった。では、本質的な価値とは何か、と。
文脈を操作することで、価値を「感じさせる」ことはできる。限定品にする、有名人に使わせる、高級なパッケージに入れる。でもそれは、脳のクセを利用しているだけだ。文脈を取り除いたとき、何も残らないかもしれない。
本質的な価値とは、文脈を剥がしても残るものだと思う。
もう少し正確に言うと、その人の内側に変化を起こすものだ。読んだ後に、少し違う角度から自分を見られるようになる。当たり前だと思っていたことに疑問が生まれる。気づかなかった選択肢が見えてくる。そういう変化は、外側から強制できない。「変えてあげる」という姿勢では届かない。
できることは、気づくきっかけを置いておくことだけだ。
そしてそのきっかけを置けるのは、答えを持って語る人ではなく、自分自身が問い続けている人だと思う。自分の内側に問いを持っている人が書くものには、読んだ人の内側にも問いが生まれる。答えを渡そうとする言葉は、受け取られて終わる。でも問いを宿した言葉は、相手の中で動き続ける。
価値を届けるとは、問いを投げることではなく、問い続けている姿勢そのものを見せることなのかもしれない。

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