ある日、ふと一冊の本に書いてあった話を思い出した。
水は、なぜ「何の味もしない」のか。
答えは意外なものだった。水に味がないのではない。水を「無味」と感じるように、私たちの知覚の方が変わってきたのだという。汚染物質のわずかな味を感知できるよう、水そのものをゼロ点にするように、長い時間をかけて。
その話を思い出したとき、ひとつの問いが浮かんだ。
では、海の水はどう考えたらいいのだろう。
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その問いから、気づけばずっと考え続けていた。
水の話が言いたかったのは、こういうことではないか。
「感じる側が、変わってきた」
私たちが「これは合理的だ」「これは無駄だ」と感じるのも、客観的な事実ではない。そう感じるように、知覚が形成されてきたのだ。
そして同じように——「なぜかこれに惹かれる」「なぜかこれが好きだ」という感覚も、その人の中に長い時間をかけて形成されてきた何かが、外の世界に反応している。
では、その「惹かれる」は、いったいどこから来るのだろう。
———
一つ、気づいたことがある。
花の美しさをまだ知らない人は、野原に一輪咲く花に気づかない。目の前にあっても、ただの景色として通り過ぎる。
でも一度その美しさに触れた人は、道端にひっそり咲く小さな花にも、足が止まる。言葉にしなくても、体が反応する。
「惹かれる」ためには、その種が自分の中に先にないといけない。
だとすると——何かに深く惹かれるとき、それはその人がすでにその何かを、どこかで知っているということだ。
完全に縁のないものには、惹かれようがない。
惹かれるとは、自分の内側にあるものが、外側に映った瞬間かもしれない。
———
もう一つ、気づいたことがある。
「自分が求めているから惹かれる」のではなく、順序が逆なのだ。
まず、惹かれる。
その後で振り返って、「ああ、自分はこれを求めていたんだ」と気づく。
答えが欲しいから問うのではなく、惹かれたことで、自分が何を問い続けていたかを知る。
そしてその問いに、答えが出たとき——惹かれは終わるだろうか。
終わらない。
答えが出ると、さらに深い問いが生まれる。またそこに惹かれる。
惹かれるとは、答えへの旅ではなく、問いが深まっていく運動なのかもしれない。
———
自分と向き合うのは、面倒くさいことだ。すぐ答えは出ないし、しんどいこともある。
多くの人が、その「しんどさ」を避けるために、短期的なものに向かう。スマホを見る、何かを買う、予定を詰める。それは悪いことではなく、自然な反応だ。
でも、どこか満たされない感覚は、消えない。短期的なもので一時的に埋まっても、またすぐ戻ってくる。
向き合い続ける人は、なぜ向き合えるのか。
それは、意志が強いからではないと思う。
向き合わずにいられないから、だ。
引っかかりを切り捨てようとしても、切り捨てられない。流れていかない。それがその人の核心に触れているから。
その「いられなさ」こそが、その人の核心がどこにあるかを、静かに指し示している。
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同じ経験をしても、深さが生まれる人と生まれない人がいる。
花を「きれいだね」と通り過ぎる人と、「なぜこの花に心が動くのか」と立ち止まる人では、同じ花を見ても深さが違ってくる。
深さとは、経験を自分の内側に引き受け続けた痕跡だ。
そしてその深さが、誰かに届く。
浅いところからの言葉は、浅いところにしか届かない。でも、自分の核心から出てきた言葉は、読んだ人の核心に触れる。
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自分の核心から出た言葉が、誰かに届いたとき——
その人はこう感じる。
「これは、自分のことだ」
言葉にできなかった何かが、突然輪郭を持つ瞬間。そうだ、自分はずっとこれを感じていた、という静かな驚き。
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自分がずっと感じていたけれど、言葉にできなかった何かが、静かに染み渡る瞬間がある。
惹かれるものに、自分が映っていた
穏やかな生き方

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