経済的合理性を突き詰めると、世界はものに溢れるが、意味が失われていく。ロリー・サザーランドの『錬金術』にそんな一節がある。モダニズム建築を例に、「無駄を削ぎ落とした結果、人の心が宿る場所がなくなった」という指摘だ。
最初、私はそこで引っかかった。合理性を追求すればシンプルになるのではないか、ものが増えるとはどういうことか。でも視点を変えると見えてきた。合理性というのは、個人が選ぶものじゃなくて、社会全体が動くときの仕組みなんだ。効率を追求する社会・産業全体が動くとき、参入障壁が下がり、供給が爆発的に増える。大量生産の時代がそうだったように、今はAIがアプリを溢れさせている。
問題は量ではない。意味だ。熟練した職人が時間をかけて作った椅子には、その「手間」自体が意味のシグナルになっている。誰でも5分で作れるものには、そのシグナルがない。
では、意味が薄れていくこの時代に、本質的な価値を持つものは何だろうか。
私が辿り着いたのは、「その人がそこにいたこと」の痕跡だ。長年の経験、失敗、特定の文脈で得た感覚。ある選択をし続けてきた軌跡。特定の誰かとの信頼。そして「何を問うか」という問い立ての力。これらはAIに複製できない。
そう考えると、このブログでやろうとしていることの意味が、少しはっきりしてくる。情報を届けようとしているのではない。ある人間が、特定の文脈の中で、納得しながら考え続けた記録を残そうとしている。それは、AIが意味を量産できない場所に立っているということかもしれない。
さらにこんなことも考えた。日常には、当たり前のように役割がある。仕事、父親、母親。特に仕事というのは、お金を稼ぐ手段だけじゃなくて、誰かの期待に応えたり、何かに貢献したりという、社会との繋がりの場でもあると思う。
たとえば、仕事が嫌で経済的自立を目指して、それを達成できたとしても、社会との繋がりが消えてしまえば、今度は「自分はここにいていいのか」という別の疑問が出てくるんじゃないか。
だから、仕事がAIに代替されていく時代に、人は何を求めるようになるのかな、と思った。これは大げさな問いではなくて、日常の延長でふと出てきた疑問だ。
私はすでに、この疑問の手前で立ち止まったことがある。
合理性で「無駄」を削ると、ものは増えるが、人の心が宿る場所がなくなる。
そしてもう一つ、今日の対話の中で腑に落ちたことがある。
「結果が全て」という生き方と、「納得できる選択をしたか」という生き方。どちらが正しいか、という問いではない。それは選択の違いだ。
結果は外側が決める基準だ。市場が、他者が、数字が評価する。一方、納得は内側で決める基準だ。自分に嘘をついていないか、という問いに答えるのは自分しかいない。
「結果より納得」という軸を持つことを、弱さや逃げと見る人もいるかもしれない。でも考えてみれば、結果は外側が与えるものだから、ある意味「もらうだけでいい」。納得は、常に自分の内側で問い続けなければならない。それはむしろ、より厳しい基準を自分に課すことでもある。
何か自分の中に軸が見つかると、それでいいと思えたり、自分の選択に納得感が出てくる。比較や承認から少し自由になれる。戦わなくていい、ということでもある。
軸は最初からあるものではなく、選び続けることで見えてくるものだと思う。それは到達するゴールではなく、姿勢として在り続けることだ。
穏やかさを失わず、ただ、今日の自分に正直であれ。


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