意味は、探すものではなく気づくものかもしれない

ロリー・サザーランドの『錬金術』を読んでいて、一つの問いが浮かんだ。
プラシーボはなぜ、身体に効くのだろうか。
行動経済学者のサザーランドは、心理学者ニコラス・ハンフリーの研究を引用しながら、こう言う。効果的なプラシーボには、何らかのコストが必要だ。お金でも、手間でも、希少性でも、制約でもいい。コストのかかるシグナルは「本物の証拠」として脳に受け取られる、と。
なぜそうなるのか。それは進化の歴史と関係している。
草むらが揺れたとき、「風か、捕食者か」を完全に確認してから動いていたら手遅れになる。不完全な情報から素早く意味を読み取り、行動できる脳が生き残った。脳はシグナルからストーリーを高速で組み立てる機械として進化してきた。コストのかかるものを「本物だ」と判断する回路も、その産物だ。
ここまで考えてきて、一つ気になることが浮かんだ。
シグナルは、受け取る側次第ではないか。
どれだけ本物のものを持っていても、相手にはそれぞれのバイアスがある。同じシグナルが、全く別の意味に読まれることもある。だとすれば、自分の軸がシグナルとして機能するかどうか、保証はどこにもない。
でも考えているうちに、前提が違っていたことに気づいた。
そもそも、全員に伝わることは不可能だ。そして、それでいいのかもしれない。自分の軸に自然に反応してくれる人と繋がればいい。シグナルはフィルターとして機能する。曖昧なシグナルは多くの人に届くが、深くは刺さらない。明確な軸から滲み出たものは、届く人には深く届く。
では、そのシグナルはどこから来るのか。
脳が「これは本物だ」と判断すると、扁桃体と前頭前野を通じて神経伝達物質やホルモンが分泌される。それが実際に身体反応を引き起こす。プラシーボが効くのは、意味の解釈が化学的な反応に変換されるからだ。意味を感じ取ることは、単なる心の働きではなく、身体全体のプロセスとして起きている。
だとすれば、意味を見出すことは、生きるうえで本質的に大切なことになる。
ただ、すべての出来事に意味を見出すことは難しい。むしろ、意味を感じられないことの方が多いかもしれない。そういうとき、無理に意味を作ろうとすると、どこかに力みが入る。
意味は、構築するものではなく、ふと気づくものではないか。
そう思い始めると、大切なのは意味を探し続けることではなく、「どうありたいか」を問い続ける姿勢なのかもしれない、という気がしてきた。
出来事の意味は外側にあるのではなく、自分の軸を通したときに生まれる。どうありたいかが内側にあれば、ふとした瞬間に意味が見えてくる。それは探して見つけるものではなく、姿勢を持ち続けていると、気づいたらそこにあるものだ。
意味を無理に作ろうとしないこと。でも、どうありたいかを問う姿勢は手放さないこと。
その二つが、静かに共存できるとき、生きることは少し軽くなる気がする。

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