なんで私だけ、の奥にあるもの

ふとした瞬間に、その感覚が湧いてくることがある。
なんで私だけ。
誰かがやらなければならない。気づいたら自分がやることになっている。そういう場面が積み重なると、じわじわと腹の底に何かが溜まっていく。
はじめはその感覚を、自分の弱さだと思っていた。もう少し大らかになれれば、気にならないのかもしれないと。
でも少し立ち止まって考えると、そうではないと気づく。
「なんで私だけ」という感覚は、いくつかのことが同時に重なって、はじめて生まれる。何が滞っているかに気づくこと。それを自分のこととして受け取ること。自分と周りの動きを同時に見ていること。
そこに気づかずに通り過ぎられる人は、そもそもこの感覚を持ちにくい。
そう考えると、この不満は感度の裏返しでもあるのかもしれない。見えているから、感じる。感じるから、動く。動くから、また回ってくる。
やらない人の方が得をする、と思うこともある。消耗しない、損もしない。確かにそう見える。
ただ「得」の中身を問い直すと、少し景色が変わる。その場の流れも、人との間にある小さな気配も、自分の行動が全体の中でどこにつながっているかも。それは楽に見えるけれど、そのぶん受け取っていないものもあるのかもしれない。
何を「得」とするか、によって答えは変わる。
もう一つ、自分の中で少し変わったことがある。「やらされている」と「自分で選んでいる」は、作業は同じでも、内側の体験がまったく違う。動機を誰かに預けるのか、自分で持つのか。そこだけは、選べる。
それでも悔しさは残る。どれだけ自分のこととして捉え直しても、完全には消えない。
でもその悔しさを感じなくなったら、それは感度が鈍ったということでもある。「そうじゃない」と感じる自分の根っこが、薄れたということでもある。
悔しいまま、それでも選ぶ。
それは負けではないのだと、今は思っている。
この悔しさを消すことではなく、この悔しさを抱えたまま、自分は何を選びたいのか。
たぶん、その問いを持つところからしか、始まらないものがある。

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