ふと、自分はなぜよりよいものを求めるのだろう、と思うときがある。
今あるもので、特に困っていない。それでも、もっと精密なもの、もっと質のいいものを見ると、惹かれる自分がいる。
先日、アダム・スミスがその違和感に近いことを書いていたのを読んで、少し立ち止まった。
1日に2分以上遅れる懐中時計は、時計のことを気にする人間から嫌われ、おそらく彼はその時計を売り、より精密な別の時計を買うだろう。しかし時計というものの唯一の用途は今何時かを知らせることである。
だが、この時計について非常に細かい人間が、ほかの人間よりも常に時間に几帳面であるとか、いっそう時間を気にかけているわけではない。彼が関心を持っているのは今何時かを知ることではなく、時間を教えてくれる機械の完璧さなのである。
—— アダム・スミス『道徳感情論』
時計の本来の目的は、今何時かを知ることだ。1日2分の誤差があっても、日常生活で困ることはほとんどない。それでも人は、より精密な時計を求める。なぜか。
それは、時間を知りたいのではなく、完璧な機械を所有したいからだ、とスミスは言う。
— —
ではなぜ、完璧なものを所有したいのか。
掘り下げていくと、承認欲求に行き着く。完璧なものには、暗黙のメッセージがある。高価であること、精巧であること、希少であること。それらは「自分はそれに値する人間だ」という証明として機能する。
そう考えると、自分が何かを手に入れたときに感じていた静かな高揚の正体も、少し見えてくる。あれは物そのものへの満足ではなかったのかもしれない。
つまり人は、物の完璧さに惹かれているのではなく、「自分はちゃんとした人間だ」という確認を物に求めているのかもしれない。
— —
では承認欲求は、どこから来るのか。
もともと人間は、群れの中で生きる生き物だった。群れから孤立することは、生存を脅かした。だから「群れの中で価値ある存在であること」は、本能に近いレベルで刻まれている。
現代では孤立しても死なない。それでも脳は、同じ恐怖を感じる。「認められなければ」「価値を示さなければ」という衝動が、意識しないところで働き続ける。
完璧な時計を求める気持ちも、新型のスマートフォンに惹かれる気持ちも、その延長線上にある。
— —
ここまで来て、ひとつの問いが浮かんだ。
ではすべては本能に突き動かされているのか、と。
そうかもしれない。承認欲求も、好奇心も、「立ち止まって考えたい」という気持ちも、元を辿れば体の奥にある衝動から来ている。そこから完全に抜け出すことは、おそらく人間にはできない。
ただ、気づくことには意味がある。衝動から脱出するためではなく、衝動と行動の間に、少しの空間を作るために。
動物は、本能と行動が直結している。人間は、その間に空間を持てる。気づき、立ち止まり、問うことができる。「これは本当に自分が望むことか」「これは自分の穏やかさを守れるか」と。
— —
空間があるかどうかで、生き方の質はまったく変わる。
本能のまま動くとき、自分は流される側にいる。うまくいっても「たまたま」、うまくいかなくても「なぜか分からない」という感覚が残る。
空間を持って選ぶとき、自分が主語になる。結果がどうであれ、「自分がそう選んだ」という事実が残る。そこに後悔ではなく、納得が生まれる。
そしてその納得が、少しずつ積み重なっていく。
— —
よりよいものを求め続ける人は、内側に積み重ねがないから外側に証明を求める、という見方ができる。
逆に言えば、自分の軸から選び続けた時間は、その人の内側に静かに蓄積されていく。「自分はちゃんとした人間か」を外側で確認しなくても済む状態へ、少しずつ近づいていく。
それが穏やかさというものの、ひとつの正体かもしれないと、今は思っている。
不安がないことではない。揺れないことでもない。揺れながらも、「自分はこれまで自分の軸から選んできた」という、静かな信頼が内側にある状態のこと。
より精密な時計は、その信頼を外側から補おうとするものだ。でも内側に積み重ねがあれば、時計の精度はどうでもよくなる。
スミスが指摘した奇妙な人間の性質を、時々思い出す。自分は今、どちらにいるだろうか、と。


コメント