三枚のコインの分け方

対立というと、離れた二人が向き合っている姿を思い浮かべる。

でも、そうとは限らない。そう思わせる寓話がある。

世界平和をテーマにしたセミナーで、修道士が問われる。イスラエルとパレスチナのあいだで、和平は成立するのか。

彼は答えを語らない。かわりに二人の男性を呼び、聖書台に三枚のコインを置く。

あなた方は兄弟で、父の遺産として三枚のコインを相続した。ひとつを半分にはできない。お互いが最大の利益を得るには、どう分ければいいか。

一人は「自分が二枚、相手に一枚」と答えた。もう一人は「自分が一枚、相手に二枚」と答えた。

修道士は、どちらにも首を振る。多く取っても、譲っても、そこには多い側と少ない側が残る。争いの種は消えていない。

次に、二人の女性が同じ問いを受ける。

一人が言う。私が一枚、彼女に二枚。ただし、そのうちの一枚は小児病院に寄付する。

もう一人が続ける。一枚は自分に、一枚は相手に、残る一枚は共同で投資したい。

会場は拍手に包まれた。

コインは三枚のまま、一枚も増えていない。変わったのは、問いのほうだ。

はじめの二人は、このコインは私のものか、あなたのものか、と問うた。三枚しかないのだから、私が多く取れば相手は少ない。一本の線の上で綱を引き合っていて、どちらへ動いても片方が損をする。逃げ場がない。

あとの二人は、コインの使い道を、どちらのものでもない場所へ移した。小児病院に寄付された一枚は、もう誰の取り分かを問われない。誰のものでもないから、分ける対象ではなくなる。奪い合いから、その一枚だけが外れた。

視線の向きが変わったのだと思う。

向かい合ってコインを引き合っていた二人が、その向こうにある子どもの幸福へ、同時に目を向けた。

同じ方向を見ているとき、私が良いと思うことは、あなたが良いと思うことを妨げない。むしろ、一緒に肯定できる。

彼女たちは、もともとあった共通点を掘り当てたわけではない。子どもの幸福という軸を、自分たちで据えた。

中心は、見つかる前に選ばれている。

なぜ子どもの幸福だったのか。たぶん、性別や母性の話ではない。

子どもの幸福は、どちらの側から見ても価値があって、誰も反対する理由がない。両方が同時に持てる。

土地やお金は、そうはいかない。一方が持てば、一方は持てない。でも、両方が同時に持てるものの前では、どちらのものか、という問いが立たない。問いが立たなければ、勝ち負けも立たない。

ただ、これはいつでも起きることではない。相手側の子どもなど知ったことか、と本気で思っていたら、子どもの幸福はもう共通点にならない。

共通の中心が見えるかどうかは、向き合う二人が、どれだけ誠実でいられるか。そこにも左右される。

これは万能の鍵ではない。軸を引き直しても、どうしても同じ側に立てない対立は残る。的そのものが真正面からぶつかっているとき、この寓話は解いてくれない。

でも、日常の対立の多くは、的が本当に対立しているのではなく、同じものを向かい合って引っ張っているだけなのかもしれない。だとすれば、横に並べば、ほどけるものは案外多い。

話が煮詰まったとき、取り分をどう削り合うかから一歩引いて、問い直してみる。この中に、私たちが一緒に良いと思えるものはないだろうか。

これは、私がこの寓話からいまのところたどり着いた場所だ。正解ではない。見る人によって、着く場所は変わる。

あなたなら、三枚のコインを前にして、どこに軸を置くだろう。

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