責任を取るとは、逃げないことだと思っていた。

穏やかな生き方

あるとき、こんな言葉を聞いた。

「最悪何かが起きたら、責任取るのが責任者や。」

聞いた瞬間、妙に軽い言葉だと思った。重さが、ない。

責任を取るというのは、もっと重苦しいものだと思っていた。謝罪すること。辞表を出すこと。何かを失うこと。でもその言葉には、そういう暗さがなかった。むしろ、どこか清々しかった。

なぜだろうと考えた。

おそらく、その人には「いざとなれば自分が動けばいい」という感覚があったのだと思う。責任を重荷として背負っているのではなく、最後の選択肢として手元に持っている。だから今が、軽い。

覚悟の深さが、かえって身軽さになっている。

その話を聞きながら、自分はどうだろうと思った。

私は不安を抱えるタイプではない。「人はいずれ死ぬのだから、何かにしがみつくのはどうか」という感覚がある。失敗してもいいや、とも思っている。

でもそれは、踏み出す力ではなかった。

転んでも大丈夫という床であって、動き出す後押しではない。「失敗してもいい」は結果への構え。「しがみつかない」は手放しの覚悟。でも、そもそも動き出すとき、何が背中を押しているのか。

考えてみると、何も出てこなかった。

目的地が描けていない。自分の欲望に気づけていない。もしかすると、酸っぱい葡萄なのかもしれない。

正直に言えば、うっすら気づいていることはある。やってみたいと思っても、気づかないふりをしていることが、あるかもしれない。現状のバランスを崩すのが怖くて、今の穏やかさを守ろうとしている。

ただそこで、気づいたことがある。

今の穏やかさは、本当に穏やかなのだろうか。それとも、揺れないように固めた状態なのだろうか。

外から見れば同じに見える。でも内側の感触は、違う。

おそらく私は、固めているのだと思う。だから呼吸が、少し苦しい。

本当に欲しいのは何か。

考えていたら、ふと浮かんだ光景があった。

朝の静けさの中で、穏やかな日差しを浴びながら、自分のペースで体を動かしている。誰にも急かされず、誰にもコントロールされず、ただそこにいる。

それだった。

経済的自立とか、自分の事業とか、そういう言葉で考えていたけれど、突き詰めればその朝の時間のためだった。好きな時に、好きなことを、好きなだけ、好きな人と。誰からも干渉されない、本当の意味での自立。

穏やかさを守りたいのではなく、本当の穏やかさを、手に入れたかった。

責任を取るとは、逃げないことだと思っていた。

でも今は少し違う気がしている。

「いざとなれば自分が動けばいい」という感覚があるとき、人は今を軽く生きられる。それは能力への自信ではなく、自分自身への信頼に近い。どんな結果になっても、自分は崩れないという確信。

私はまだそこに辿り着いていない。でも、目的地が少し見えてきた。

固めた穏やかさではなく、開いた穏やかさへ。

その朝の光の中で、自分のペースで立っていること。それが、今の私が向かいたい場所だと思う。

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